「もっと給料の良い会社に行きたいので」 「新しい分野に挑戦したいので」

退職面談で語られるこれらの理由。もしあなたがこれを額面通りに受け取っているなら、あなたの組織の出血(離職)は永遠に止まりません。

人事コンサルティングの現場データによれば、退職者が会社に伝える理由は、本音のわずか10%にも満たないと言われています。 残りの90%は、「立つ鳥跡を濁さず」という日本的な美学と、「揉めても得がない」という冷徹な計算によって隠蔽されています。

では、本当の理由は何なのか? 組織心理学の権威デニス・ルソーは、それを「心理的契約(Psychological Contract)の不履行」であると定義しました。

彼らは、ある日突然辞めるのではありません。 入社時に会社と(勝手に)結んだ「期待の契約」が、日々の小さな裏切りによって少しずつ破られ、修復不可能になった瞬間に、「契約解除(=退職)」を通告してくるのです。 本記事では、この見えない契約の中身と、破綻を防ぐためのマネジメントを解説します。


第1章:雇用契約書には書かれない「心理的契約」

雇用契約書(法的契約)には、「給与」「勤務地」「労働時間」が書かれています。 しかし、社員の心の中には、それ以上に重要な「書かれざる契約書」が存在します。

  • 「一生懸命働けば、正当に評価してくれるはずだ」
  • 「困った時は、上司が守ってくれるはずだ」
  • 「この会社にいれば、成長できるはずだ」

これが「心理的契約」です。 社員はこの契約が守られている限り、多少給料が安くても、残業があっても、会社のために(相互互恵的に)尽くします。

離職のトリガーは「認知的不協和」

しかし、会社側(上司)が無自覚にこの契約を破り続けるとどうなるか。 「評価されるはずなのに、されなかった」 「守ってくれるはずなのに、梯子を外された」

この瞬間、社員の脳内で「認知的不協和」が発生します。 「私は会社を信じていたのに、裏切られた」という強烈なストレスです。これを解消するために、彼らは「会社を見限る(心理的離脱)」という行動に出ます。


第2章:契約違反の「3つのステージ」

ルソーによれば、心理的契約の違反には深刻度に応じた3つのレベルがあります。 退職届が出されるのは、ステージ3に達した時です。

ステージ1:不注意による違反(Inadvertent)

  • 現象: 上司の勘違いや、リソース不足で約束が守れなかった。
  • 心理: 「忙しかったのかな? 次は大丈夫だろう」
  • 対処: 誠実な謝罪があれば、まだ修復可能です。

ステージ2:破壊(Disruption)

  • 現象: 会社の事情で、一方的に約束が反故にされる(急な異動、評価制度の改悪)。
  • 心理: 「話が違うじゃないか。会社は自分のことなんてどうでもいいんだ」
  • 対処: 納得できる説明(説明責任)がなければ、ここで信頼残高はゼロになります。

ステージ3:背信(Renege)

  • 現象: 会社に履行能力があるのに、意図的に約束を破る(嘘をつく、手柄を横取りする)。
  • 心理: 「許せない。報復してやる(あるいは静かに去る)」
  • 対処: 修復不可能(The Point of No Return)。 ここまで来ると、いくら給料を上げても引き止められません。

多くのマネージャーは、ステージ1や2を軽視し、「これくらい大丈夫だろう」と放置した結果、ステージ3へ悪化させています。


第3章:最大の離職理由は「上司」である

ギャラップ社の調査には有名な格言があります。 「人は会社を辞めるのではない。上司を辞める(People leave managers, not companies)のだ」

心理的契約の締結相手は、抽象的な「会社」ではありません。 日常的に接している「直属の上司」です。

一貫性の欠如が契約を壊す

上司の何が契約違反になるのでしょうか。 パワハラやセクハラは論外ですが、最も多いのは「一貫性の欠如(Inconsistency)」です。

  • 「自由にやっていい」と言ったのに、細かく口出しする。
  • 「君を評価している」と言ったのに、昇進させない。
  • 機嫌によって言うことが変わる。

この「言行不一致」が積み重なると、部下は「この人との契約は無効だ」と判断します。 そして、「給料アップ」という分かりやすい(建前の)理由をつけて、別の契約先(転職先)を探し始めるのです。


第4章:EVLNモデルで予兆を察知せよ

退職届が出る前に、必ず予兆があります。 組織行動論の「EVLNモデル」で、部下の行動変化をモニタリングしてください。

  1. Exit(退出): 退職、異動願い。
  2. Voice(発言): 改善提案、不満の吐露。
    • ※ここが最後のチャンスです。「文句を言うやつ」と排除せず、契約修復のシグナルとして捉えてください。
  3. Loyalty(忠誠): 我慢して耐える。
    • ※日本人に多いですが、エネルギーを消耗しており、いずれExitかNeglectに移行します。
  4. Neglect(無視・怠慢): 遅刻、手抜き、サイレント・クイッティング(静かな退職)。
    • ※心が既に離職している状態です。

「最近、あのうるさかった部下が急に静かになった(Voice → Neglect)」 これは「物分かりが良くなった」のではなく、「あなたを見限った(Exit準備に入った)」サインです。


結論:定期的な「契約更改」が必要だ

結局のところ、人が辞める理由は一つです。 「ここにはもう、自分が信じられる未来(契約)がない」と悟ったからです。

これを防ぐには、プロ野球選手のように、定期的な「契約更改」が必要です。 半期に一度の1on1で、目標管理だけでなく、心理的契約のメンテナンスを行ってください。

  • 「入社時に期待していたことと、現状にズレはないか?」
  • 「会社や私に対して、裏切られたと感じたことはないか?」
  • 「これから先、この会社で何を得たいか?」

この「メタ・コミュニケーション(関係性についての対話)」ができる上司のもとでは、心理的契約は常にアップデートされ、強固な信頼関係(エンゲージメント)へと昇華します。

退職届を出されてから「給料を上げるから残ってくれ」と言うのは、浮気がバレてから指輪を買うようなものです。 手遅れになる前に、見えない契約書の中身について、腹を割って話してみませんか?

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