「全社でペーパーレス化を掲げたのに、裏紙コピーが減らない」 「照明のこまめな消灯を呼びかけているが、徹底されない」
サステナビリティ推進室の担当者が直面するのは、こうした「分かってはいるけど、動かない」という人間の行動原理の壁です。 多くの企業は、研修や社内報で「地球環境のために」と正論を説きます。しかし、行動経済学の観点から言えば、「正しさ」だけで人の行動を変えることは極めて困難です。
なぜなら、人間の脳は本能的に「将来の大きな利益(地球環境)」よりも「現在の小さなコスト(面倒くさい)」を過大評価するようにできているからです(現在バイアス)。
本記事では、このバイアスを逆手に取り、説教や強制をすることなく、社員が「つい環境に良い行動をとってしまう」ように仕向ける「ナッジ(Nudge:肘で軽く突く)」の技術について解説します。
第1章:なぜ「SDGsバッジ」をつけても行動は変わらないのか?
行動変容を促す際、私たちはしばしば「態度(意識)」を変えようとします。「意識が変われば行動が変わる」と信じているからです。しかし、心理学の研究はその逆を示唆しています。「行動が変わるから、意識が変わる」のです。
「認知的不協和」を利用する
先に「環境に良い行動」をさせてしまえば、脳はその行動を正当化するために「私は環境意識が高い人間だ」と後付けで意識を書き換えます(認知的不協和の解消)。
つまり、サステナビリティ推進の鍵は、高尚な理念を説くことではなく、「最初の一歩(Action)」をいかに踏ませるかという「行動デザイン」にあります。 ここで有効なのが、英国政府の行動インサイトチームが開発した「EASTフレームワーク」です。
- Easy(簡単にする)
- Attractive(魅力的にする)
- Social(社会的にする)
- Timely(タイムリーにする)
このフレームワークを用いて、職場のサステナビリティ施策をリデザインしてみましょう。
第2章:行動を操る「デフォルト(初期設定)」の魔力
EASTの中で最も強力なのが「Easy(簡単にする)」、特に「デフォルト(Default)」の力です。 人間は、意思決定をサボりたがる生き物です。現状維持バイアスが働くため、放っておくと「初期設定」のまま行動し続けます。
コピー機の「初期設定」を変えるだけでいい
「両面印刷を心がけよう」というポスターを貼るのをやめてください。 その代わりに、社内の全コピー機の初期設定を「片面印刷」から「両面印刷・モノクロ」に変更してください。
これだけで、紙の消費量は劇的に減ります。「片面で印刷したい」という強い意志がある人だけが、設定を変更すればいいのです。 これは強制ではありません。選択の自由を残しつつ、推奨される行動(エコ)を「最も楽な選択肢」にする。これぞナッジの真骨頂です。
応用例:
- 社食のメニューの最上段(デフォルト位置)を、ヘルシーで環境負荷の低い「プラントベースミール」にする。
- 会議室の照明を、人感センサーで「自動消灯」にする(「消して」と頼むのではなく、消える仕組みにする)。
第3章:「同調圧力」をポジティブに利用する(Social)
日本人は特に「Social(社会的にする)」のナッジに弱いです。 「みんなやっている」という情報は、どんな論理的な説明よりも強力な行動ドライバーになります。
「80%の人がやっています」
あるホテルでの実験では、「環境のためにタオルを再利用してください」というメッセージよりも、「この部屋に泊まったお客様の75%がタオルを再利用しています」というメッセージの方が、再利用率が高まりました。
これを社内に応用します。
- × 「残業時の消灯を徹底してください」
- ○ 「当フロアの9割の部署が、20時の完全消灯を達成しています(未達成はあなたの部署だけです)」
比較対象を見せることで、「外れたくない」という社会規範(Social Norm)のスイッチを入れます。 また、部署ごとの「紙削減量」や「電力消費量」をグラフ化して廊下に貼り出す(見える化する)だけで、競争意識が働き、自然と削減行動が始まります。
第4章:サステナビリティを「我慢」から「快感」へ(Attractive)
最後に、「Attractive(魅力的にする)」です。 「環境配慮=我慢」という図式がある限り、定着しません。そこに「楽しさ」や「ゲーム性」を導入します(ゲーミフィケーション)。
「マイボトル」にインセンティブを
「ペットボトルを減らそう」という呼びかけに加え、給茶機やコーヒーサーバーにマイボトルを置くと、「ポイントが貯まる」「10円安くなる」といった即時報酬を用意します。 また、社内SNSで「おしゃれなマイボトル自慢」のハッシュタグキャンペーンを行うのも有効です。
「正しいからやる」のではなく、「楽しいから」「お得だから」やる。 入り口は不純で構いません。行動が習慣化した時、それは立派なサステナビリティ文化になります。
結論:説教をやめて、設計しよう
サステナビリティ推進担当者の仕事は、社員のモラルを向上させることではありません。 社員が何も考えずに働いても、結果としてサステナブルな状態になっているような「環境(アーキテクチャ)」を設計することです。
「なぜ動かないんだ」と嘆く前に、その行動を起こすための「手間(フリクション)」を取り除き、背中をそっと押す(ナッジする)仕組みを作ってみてください。 小さな初期設定の変更が、やがて組織全体の巨大な行動変容を生み出すはずです。

