はじめに
「最近、部下の元気がなさそうだ」 「メンタルヘルス不調による休職者が出てしまった」
こうした事態に直面したとき、多くの心あるマネージャーは、まず「対話」を試みます。「何か悩みはないか?」「無理をしていないか?」と優しく声をかけ、産業医との面談をセッティングする。これはもちろん、人として正しい行いです。
しかし、厳しい現実をお伝えしなければなりません。 「不調が起きてから対処する(対症療法)」では、組織の生産性はすでに毀損されています。 また、単に「話を聞く」だけのマネジメントは、一時的なガス抜きにはなっても、ストレスを生み出す構造そのものを解決することはできません。
マッキンゼーをはじめとする組織コンサルティングの現場において、ストレスマネジメントとは「弱った人を救済する福祉活動」ではなく、「人的資本の減価償却を防ぎ、パフォーマンスを最大化するリスク管理」と定義されます。
本記事では、世界の組織心理学で標準となっている「JD-Rモデル(仕事の要求度-資源モデル)」をフレームワークとして用い、精神論ではなく「構造設計」によってストレスを予防する、攻めのマネジメント手法を解説します。
第1章:なぜ「仕事量を減らす」だけでは解決しないのか?
ストレス対策として最も安易に行われるのが、「残業規制」や「業務量の削減」です。 「君、疲れているみたいだから、このプロジェクトから外れようか」 一見、部下思いの判断に見えますが、これには致命的な落とし穴があります。
「退屈」もまた、メンタルを蝕む
業務量を減らすことは、一時的な休息にはなりますが、同時に部下から「挑戦の機会」や「成長の実感」を奪うことにも繋がります。これを心理学では「ボアアウト(Boreout:退屈による消耗)」と呼びます。過度な負担軽減は、部下の自尊心を傷つけ、かえってモチベーション(ワーク・エンゲージメント)を低下させるリスクがあるのです。
では、どうすれば「忙しくても、生き生きと働ける状態」を作れるのでしょうか? その答えを解き明かすのが、JD-Rモデルです。
第2章:最強のフレームワーク「JD-Rモデル」のメカニズム
JD-Rモデル(Job Demands-Resources Model)は、オランダの心理学者バッカーらによって提唱された理論で、職場のストレス要因を以下の2つに分けて考えます。
- 仕事の要求度(Job Demands):
- 仕事の量、質、スピード、納期、感情的な負担など、エネルギーを消耗させる要素。
- これが高すぎると「燃え尽き(バーンアウト)」につながる。
- 仕事の資源(Job Resources):
- 裁量権、上司のサポート、フィードバック、成長機会など、エネルギーを回復させ、目標達成を助ける要素。
- これが高いと「ワーク・エンゲージメント(熱意)」につながる。
「要求度」が高くても「資源」があれば人は潰れない
このモデルの最大の発見は、「仕事の要求度(Demands)が高くても、十分な資源(Resources)があれば、ストレスは相殺され、むしろ高いパフォーマンスが発揮される」という事実です。
例えば、徹夜続きのスタートアップ企業の創業メンバーが、なぜ過労死せず、むしろ目を輝かせているのか。それは、業務量は過酷でも、「自分で決められる(裁量権)」や「仲間との一体感(ソーシャルサポート)」という「資源」が潤沢だからです。
逆に、定時帰りでもメンタルを病む人がいるのは、業務量は少なくても、「やらされ仕事(裁量なし)」で「誰からも感謝されない(報酬・承認なし)」という、「資源が枯渇した状態」にあるからです。
つまり、マネージャーがなすべきストレス予防とは、「要求度を下げる(仕事を減らす)」ことではなく、「資源を増やす(サポートや裁量を与える)」ことなのです。
第3章:現場で実践する「資源(リソース)」の増やし方
では、具体的にどうすれば「仕事の資源」を増やせるのでしょうか。予算も権限も限られた現場マネージャーが、明日から実践できる3つの構造的アプローチ(Structural Interventions)を提案します。
1. 「裁量権」のマイクロ・エンジニアリング
心理的ストレスの最大の要因の一つは「コントロール感の欠如」です。 「上司の指示通りに動くだけ」の状態は、脳にとって強いストレスとなります。たとえ小さなタスクであっても、部下に「コントロールのハンドル」を渡してください。
- Before(管理型): 「A社の資料、このテンプレートを使って、明日の15時までに作って。できたらメールして」
- After(資源型): 「A社の資料が必要だ。目的は〇〇。期限は明日中だが、構成や進め方は君に任せる。もし迷ったら相談してくれ」
「任せる」ことは、部下にとって最大の「資源」供給です。 ただし、丸投げはいけません。「困ったときは助ける」というセーフティネット(これも資源です)を用意した上で、How(やり方)の自由度を与えてください。
2. 「フィードバック」を評価から栄養に変える
フィードバックを「査定(Judgment)」だと思っていませんか? JD-Rモデルにおいて、適切なフィードバックは、自分が正しい方向に進んでいるかを確認するための「ナビゲーション」であり、強力な資源となります。
半年に一度の人事評価面談だけでは、資源供給として全く足りません。必要なのは、日々の「承認フィードバック」と「成長フィードバック」です。
- 承認: 「昨日の会議の発言、視点が鋭くて助かったよ(具体的に褒める)」
- 成長: 「資料の論理構成は良かった。次はデザインを見やすくすると、もっと伝わるね(改善点を示す)」
「自分の仕事が見ていてもらえている」という感覚は、孤独感(資源の枯渇)を防ぐ特効薬です。
3. 「ソーシャルサポート」のネットワーク化
「何かあったら相談して」と上司が開けて待っていても、部下は来ません。 上司一人が全てのサポートを担うのではなく、チーム全体で資源を共有し合う仕組みを作ります。
- ピア・メンタリング: 年齢の近い先輩社員をメンターにつけ、斜めの関係を作る。
- チェックインの定例化: 毎朝の朝礼や週次ミーティングの冒頭5分を、「業務報告」ではなく「今の気分や体調」をシェアする時間にする(Wevoxなどのパルスサーベイ活用も有効)。
「弱音を吐いても大丈夫だ」という心理的安全性こそが、組織が提供できる最大の資源です。
第4章:マネージャーは「環境の建築家」になれ
ここまで、「資源」を中心に解説してきましたが、もちろん「過剰な要求度」の調整も必要です。 無意味な会議、重複した報告書、決まらない意思決定。これらは部下のエネルギーを奪うだけの「阻害要因(Hindrance Stressors)」です。これらを取り除くことは、マネージャーにしかできない重要な仕事です。
しかし、それ以上に重要なのは、部下が自らエネルギーを生み出せるような「環境」を設計することです。
ストレスマネジメントとは、部下の顔色を伺うことではありません。 部下が持つ「ポテンシャル」と、組織が提供する「リソース」のバランスシートを常に最適化し続ける、高度に知的な経営活動です。
結論:攻めのメンタルヘルス対策へ
「部下が潰れないように守る」という守りの姿勢から、「部下がより高く飛べるように足場(資源)を組む」という攻めの姿勢へ。 マインドセットを切り替えた瞬間、あなたのチームにおける「ストレス」は、忌避すべき毒から、成長のためのエネルギーへと変わるはずです。
さあ、まずはあなたのチームの「資源不足」がどこにあるか、JD-Rモデルのレンズを通して点検することから始めてみましょう。

