はじめに

「大きなプロジェクトが終わったのに、達成感がない」 「上司に怒られても、悲しいというより『無』を感じる」 「週末に何をしたいか聞かれても、何も思いつかない」

激務をこなすハイパフォーマーの中に、こうした「感情の真空状態」に陥る人が増えています。 彼らはうつ病のように落ち込んでいるわけではありません。ただ、ロボットのように「感情のスイッチ」が切れているのです。

これを心理学用語で「アレキシサイミア(Alexithymia:失感情症)」と呼びます。

ビジネスの世界では「感情を排して論理的に考えろ」と教わります。しかし、最新の脳科学はその常識を覆しています。 「感情(情動)がなければ、人間は正しい意思決定ができない」 これが科学的な結論です。

自分の気持ちがわからない状態を放置することは、メンタルの問題にとどまらず、あなたのビジネスパーソンとしての「判断能力(OS)」を破壊する深刻なバグです。 本記事では、なぜ感情を殺すと仕事ができなくなるのか、そのメカニズムと、失われた回路を修復するエンジニアリング手法を解説します。


第1章:なぜ優秀な人ほど「感情オンチ」になるのか?

アレキシサイミアは、精神疾患ではありません。過酷な環境に適応するために脳が選んだ「生存戦略(防衛反応)」です。

「過剰適応」の代償

例えば、理不尽なクレーム処理や、極度のプレッシャーがかかるプロジェクト中に、いちいち「辛い」「怖い」と感じていたら心が壊れてしまいます。 そこで脳は、「感情(扁桃体)」と「意識(前頭葉)」を繋ぐケーブルを一時的に切断します。 これにより、痛みを感じずに業務を遂行できる「スーパーサラリーマン・モード」に入ります。

しかし、問題はこのモードが常態化することです。 長期間ケーブルを切断したままでいると、いざ平和になっても再接続できず、「自分が今、快なのか不快なのかさえ分からない」という廃人状態になります。これが「自分の気持ちがわからない」の正体です。


第2章:感情を失うと「意思決定」ができなくなる

「感情がないほうが、クールで合理的な判断ができる」と思っていませんか? それは大きな誤解です。神経学者アントニオ・ダマシオが提唱した「ソマティック・マーカー仮説」が、その誤りを証明しています。

脳腫瘍で「感情」を失ったエリオット氏の事例

ダマシオの患者であるエリオット氏は、脳腫瘍の手術で「情動」を司る部位だけを損傷しました。知能(IQ)や記憶力は正常なままです。 しかし、彼は「昼食に何を食べるか」「どのペンを使って書類を書くか」といった些細な決断に何時間も迷い続け、社会生活が送れなくなりました。

「論理」だけでは選べない

なぜなら、論理的にはA定食もB定食も「栄養価は同じ」「価格も同じ」であり、優劣がつかないからです。 私たちが瞬時に決断できるのは、過去の経験に基づいて身体が「なんとなくこっちが良い(快)」「こっちは嫌な予感がする(不快)」という身体的シグナル(ソマティック・マーカー)を送ってくれているからです。

つまり、感情(身体感覚)とは、膨大な選択肢を瞬時に絞り込むための「高速演算システム」なのです。 「自分の気持ちがわからない」状態とは、このシステムがダウンしていることを意味します。これでは、キャリアの選択も、結婚の決断も、ビジネスの投資判断もできるはずがありません。


第3章:失われた回路を繋ぐ「身体感覚(Interoception)」へのアクセス

では、切断されたケーブルをどうやって修復すればいいのでしょうか? 「自分の心に問いかけよう」と日記を書いても無駄です。アレキシサイミアの人は、言語化する前の「感覚」が麻痺しているからです。

アプローチすべきは「心」ではなく「体(Body)」です。 感情は、脳で生まれる前に、まず身体反応(心拍数の上昇、胃の収縮、筋肉の緊張)として現れます。これを「内受容感覚(Interoception)」と呼びます。

Step 1: ボディ・スキャン(モニタリング)

1日に数回、強制的にPCから目を離し、自分の身体の状態をスキャンします。

  • 「今、奥歯を食いしばっていなかったか?」
  • 「呼吸が浅くなっていないか?」
  • 「胃のあたりが重くないか?」

「辛いか?」と感情を問うと答えられなくても、「肩が凝っているか?」という物理的な問いには答えられるはずです。 「肩が凝っている(身体)」=「緊張している・警戒している(感情)」 このように、身体反応から逆算して感情を推定するリハビリを行います。


第4章:「感情の解像度(Emotional Granularity)」を上げる

身体の感覚が戻ってきたら、次はそれに「名前(ラベル)」をつけます。 心理学者リサ・フェルドマン・バレットの研究によれば、「感情の粒度(解像度)」が高い人ほど、ストレス耐性が高く、適切な対処ができます。

「ヤバい」「疲れた」を禁止する

アレキシサイミア傾向のある人は、感情を「快か、不快か」の2ビット、あるいは「ヤバい」「疲れた」という低解像度でしか処理できません。 これを高解像度の言語に変換します。

  • 「上司に怒られてムカつく
    • ↓(解像度アップ)
    • 「自分の努力が否定されて『悲しい』のか?」
    • 「理不尽な言い方をされて『憤り』を感じているのか?」
    • 「図星を突かれて『恥ずかしい』のか?」

「プルチックの感情の輪」などのチャートを見ながら、今のモヤモヤに最も近い単語を選んでください。 「あ、私は今『悔しい』んだな」とラベルが貼れた瞬間、脳(前頭前野)は再起動し、「じゃあ次はどうする?」という建設的な思考が可能になります。


結論:感情は「ノイズ」ではなく「重要データ」である

ビジネスにおいて、感情を表に出すことは「未熟」とされるかもしれません。 しかし、感情を「感知(センス)」することは、プロフェッショナルの必須能力です。

「このプロジェクト、数字は合っているが、なんとなく気持ち悪い(リスク検知)」 「あのメンバー、何も言わないが、空気が重い(組織課題の発見)」

こうした直感は、すべてあなたの「感情センサー」が正常に稼働していて初めて得られる「生体データ」です。

「自分の気持ちがわからない」 もしそう感じたら、それは「もっと頑張れ」というサインではなく、「センサーのメンテナンスをせよ」という緊急停止アラートです。

まずは今日、ランチのメニューを「なんとなく」ではなく、「今の自分の身体が本当に欲しているものは何か?」と、真剣に身体の声を聞いて選んでみてください。 その小さなリハビリが、あなたの意思決定力を蘇らせる第一歩になります。

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