はじめに
「このプロジェクト、やりたいか?」と聞かれて、言葉に詰まる。 「今の仕事に不満はあるか?」と聞かれても、特に何も感じない。
激務をこなすビジネスパーソンの中には、このように「自分が今、何を快と感じ、何を不快と感じているのか」が分からなくなる状態に陥っている人が少なくありません。
これを「大人になったからだ」「感情に振り回されずクールになった」と肯定的に捉えるのは危険です。 心理学では、この状態を「アレキシサイミア(失感情症)」と呼びます。それは、あなたの脳がストレス過多により「緊急停止モード」に入っているサインであり、放置すれば突然の燃え尽き(バーンアウト)や、重大な判断ミスを招くリスクがあります。
本記事では、ビジネスにおいて「感情」という情報ソースがいかに重要かを解説し、麻痺したセンサーを再起動させるための科学的なアプローチをご紹介します。
なぜ、優秀な人ほど「感情」を失うのか?
アレキシサイミア(失感情症)とは、精神医学の用語で、自分の感情を認知・言語化することが困難になる特性のことです。 これは病気というよりも、過酷な環境に対する「脳の適応戦略」です。
理不尽な要求や長時間労働が続く環境下では、「辛い」「嫌だ」といちいち感じていては身が持ちません。そのため、脳は感情の回路を意図的に遮断(シャットダウン)し、機械のようにタスクを処理することで自分を守ろうとします。
「感情」はノイズではなく「高度な情報」である
「ビジネスに感情を持ち込むな」とよく言われますが、現代の神経科学ではこの説は否定されています。 アントニオ・ダマシオ教授が提唱した「ソマティック・マーカー仮説」によれば、人は論理だけで物事を決めているのではありません。「なんとなく嫌な予感がする」「これはいけそうだ」という身体的感覚(感情)が、論理的な意思決定をガイドしていることが分かっています。
つまり、「気持ちがわからない」状態とは、意思決定に必要な「羅針盤」を失ったまま、海原を漂流している状態に等しいのです。
失われたセンサーを取り戻す3つの技術
麻痺してしまった感情回路を再接続するには、思考(Logic)から離れ、感覚(Sensation)にフォーカスするリハビリが必要です。
1. 「感情」ではなく「身体反応」をモニタリングする
感情がわからなくても、「身体」は正直に反応しています。 いきなり「今、どう思ってる?」と自問しても答えは出ません。代わりに、以下のように身体の状態をスキャンしてください(内受容感覚のアプローチ)。
- 「今、胃のあたりが重くないか?」
- 「奥歯を噛み締めていないか?」
- 「呼吸が浅くなっていないか?」
「胃が痛い」→「ストレスを感じている」→「実はこの案件に不安がある」 このように、身体感覚を入り口にして、逆引きで感情を特定する習慣をつけます。
2. 感情の「解像度(Granularity)」を上げる
「なんとなくモヤモヤする」「やばい」といった粗い言葉を使っていると、脳は感情を詳細に処理できません。 感情を表す語彙(ボキャブラリー)を増やし、ラベリングの精度を高めます。
- Before: 「仕事がしんどい(モヤモヤ)」
- After: 「A社への連絡が遅れていることに『焦り』がある」「上司の言い方に『屈辱』を感じている」「先が見えないことに『無力感』がある」
名前をつける(ラベリングする)だけで、脳の扁桃体の興奮が鎮まることが科学的に証明されています。
3. 「モーニング・ページ」で脳の排水をする
思考のフィルターを通さずに、浮かんだことをそのまま書き出す手法です。 毎朝、ノートに3ページ分、ただひたすら頭の中の言葉を書き殴ります。「書くことがない」「眠い」「部長の顔がムカつく」など、何でも構いません。
これを続けると、普段理性のフタに押さえつけられていた「本音」が、排水のように紙の上に溢れ出てきます。書かれた文字を客観的に見ることで、「ああ、自分は本当はこう思っていたのか」と再発見することができます。
結論:感情を取り戻すことは、能力を取り戻すこと
「自分の気持ちがわからない」という状態は、決して強さの証明ではありません。それは、PCで言えば「熱暴走を防ぐために、パフォーマンスを落としている状態」です。
感情(快・不快のセンサー)が正常に働いて初めて、私たちは「自分がどこへ向かいたいのか(キャリアの軸)」や「誰と働きたいのか(チームビルディング)」を適切に判断できます。
まずは今日、コーヒーを飲む瞬間に「美味しい」と感じるかどうか。そんな小さなセンサーの点検から始めてみてください。あなたの脳は、まだ回復できます。


