はじめに
「次世代リーダー候補を選抜し、高額な外部研修に行かせた。しかし、現場に戻ってくると、以前と変わらない振る舞いをしている」
多くの企業の人事担当者や経営者が、この「研修の無駄打ち」に頭を悩ませています。 なぜ、座学で学んだ「あるべきリーダー像」は定着しないのでしょうか? 本人の意識が低いからでしょうか?
いいえ、違います。原因は、人間の学習プロセスの根本的な誤解にあります。
心理学者アルバート・バンデューラが提唱した「社会的学習理論(Social Learning Theory)」によれば、人は「教えられたこと」よりも「他者の行動を観察して得たこと」の方を強烈に学習します。 つまり、いくら研修室で「傾聴が大事」と教えても、現場の上司が部下の話を遮って怒鳴っていれば、将来のリーダーは「怒鳴るスタイル」を学習(コピー)してしまうのです。
本記事では、この無意識の学習プロセスを逆手に取り、座学に頼らず、現場の「観察」と「模倣」によって優秀なリーダーを育成する科学的なメカニズムを解説します。
第1章:リーダーシップ開発の「不都合な真実」
人材開発の領域には、世界的に支持されている「70:20:10の法則」(ロミンガーの法則)という経験則があります。 ビジネスパーソンの成長に寄与する要素の比率は、以下の通りです。
- 70%:経験(仕事上の経験)
- 20%:薫陶(上司や先輩からの観察・アドバイス)
- 10%:研修(読書や座学)
驚くべきことに、多くの企業が予算と時間を投じている「研修」は、成長要因のわずか10%に過ぎません。残りの90%は現場(On the Job)にあります。
放置された「20%」が組織を腐らせる
特に重要なのが、社会的学習にあたる「20%(薫陶・観察)」です。 ここを戦略的にデザインしていない組織では、「悪いモデリング(Bad Modeling)」が連鎖します。
- 「上司がプレッシャーで部下を動かしている」→「自分もそうしていいんだ」
- 「上司がトラブルを隠蔽している」→「そういうものなんだ」
このように、現場にいる「既存のリーダー」の行動こそが、最強の教科書として機能してしまいます。 したがって、リーダー育成の第一歩は、研修カリキュラムを作ることではなく、「誰を観察させるか(ロールモデルの選定)」から始めなければなりません。
第2章:バンデューラの4プロセスをビジネスに応用する
では、どうすれば「良い行動」だけを学習させることができるのでしょうか。 バンデューラは、模倣学習(モデリング)が成立するためには4つのプロセスが必要だと説きました。これをビジネスの現場に翻訳します。
1. 注意過程(Attention):見る価値があると思わせる
人は、自分にとって「魅力的」または「権威ある」対象に注目します。
- Action: 憧れの先輩や、圧倒的な成果を出しているリーダーをメンターに指名する。「あんな風になりたい」という憧れがない限り、学習は始まりません。
2. 保持過程(Retention):行動を言語化して記憶する
見ただけでは忘れます。見たものを「言葉」や「イメージ」として脳に保存する必要があります。
- Action: 「あの時、なぜ部長はあえて黙っていたのだと思う?」と問いかけ、観察した行動の意図を言語化(内省)させるレポートを書かせる。
3. 再生過程(Reproduction):実際にやってみる
記憶した行動を、自分の体で再現できるか試すフェーズです。
- Action: いきなり本番ではなく、ロールプレイングや、失敗が許容される小規模プロジェクトで「真似」をさせる。
4. 動機づけ過程(Motivation):メリットを実感する
その行動をとることで、良い結果(報酬)が得られると理解することです。
- Action: 新しいリーダーシップ行動をとった時に、周囲が称賛したり、実際にチームの雰囲気が良くなる成功体験を積ませる。
第3章:現場で導入すべき3つの「社会的学習」施策
理論を実践に移すための、具体的な3つの構造的アプローチ(Intervention)を提案します。
施策1:ハイパフォーマーへの「シャドーイング(密着)」
新任リーダーを研修室に閉じ込める代わりに、社内の「優れたリーダー」に1日〜数日間、金魚のフンにように同行(シャドーイング)させます。 会議の発言、メールの書き方、ランチでの雑談まで、全てを観察させます。
重要なのは「事後の答え合わせ」です。 1日の終わりに、以下の質問を投げかけさせます。
「今日の会議で、Aさんの意見を一度否定してから肯定しましたよね? あれにはどういう意図があったのですか?」
この「問い」によって、熟達者の頭の中にある暗黙知が形式知化され、強烈な学習効果を生みます。
施策2:ナラティブ・メンタリング(失敗談の共有)
成功体験だけを聞いても、人は育ちません。「どうやって修羅場を乗り越えたか」というプロセス(代理体験)こそが重要です。
社内のリーダー層を集め、「私のリーダーとしての最大の失敗と、そこからの学習」を語るランチセッションを開催してください。 「あの部長でも失敗したんだ」という事実は、若手の自己効力感(Self-Efficacy)を高め、「自分にもできるかもしれない」という動機づけ(Motivation)を強化します。
施策3:ピア・コーチング(横のつながり)
上司から学ぶだけでなく、同じ立場の新任リーダー同士でペアを組み、互いのマネジメント行動を観察し合う仕組みです。
- 「昨日の君のフィードバック、少し威圧的に見えたよ」
- 「会議の進行、すごくスムーズだったね。どうやったの?」
利害関係のない「斜めの関係」や「同期」からのフィードバックは、上司からの指導よりも素直に受け入れやすく、客観的な「鏡」として機能します。
第4章:人事の役割は「教育」ではなく「生態系の設計」
これからの時代、人事担当者や経営者がなすべきことは、eラーニングの動画を作ることではありません。 社内にいる「隠れた良きリーダー(ロールモデル)」を発掘し、彼らと若手が交わる「接点(Observation Point)」をデザインすることです。
逆に言えば、社内に「見習うべきリーダー」が一人もいない場合、どんな高額な研修を導入しても効果はゼロに等しいでしょう。その場合は、外部からロールモデルを採用するか、経営陣自らが変わるしかありません。
結論:リーダーシップは「伝染」する
「子は親の背中を見て育つ」と言いますが、部下もまた、リーダーの背中を見て育ちます。 あなたが今日、部下に見せた背中は、将来部下がそのまた部下に見せる背中になります。
「リーダーシップは教えるものではなく、感染(伝染)させるものである」
この社会的学習の本質を理解した時、あなたの組織の育成戦略は、根本から変わり始めるはずです。


